復刻連載「北のサラムたち1」第1回 プロローグ―ふたつの瀋陽事件(1) 日本総領事館駆け込みの真相 石丸次郎(アジアプレス・ネットワーク)



◆はじめに

初めて朝中国境の取材に赴き、北朝鮮の人々との対話を開始したのは1993年7月、31歳の時でした。それから10年近くにわたる北朝鮮の人々との出会いと交わりをまとめたのが、私にとって初めての著書「北のサラムたち」(インフォバーン 2002年)です。この拙著は「北朝鮮からの脱出者たち」と名前を変えて講談社から文庫版を出しました(現在はいずれも絶版)。

現在の金正恩政権の在り様を考えるうえで、100万~300万ともいわれる餓死者を出した1990年代の大社会混乱期と、大量の脱北難民が流出したその後の10年間について知ることが不可欠です。北朝鮮社会が質的に大きく変化し、既存の統治体制の瓦解が始まったのが、この時期だからです。拙著をネット版として復刻連載を始めるのは、当時の北朝鮮の内情の一端を知るささやかな助けになればとの思いからです。一カ月に4-8回のペースで連載してまいります。(石丸次郎)

◆ターゲットは“日本食堂”
「宴会の場所は“洋食屋”から“日本食堂”に変わりました」

中国遼寧省瀋陽市の現地から“ターゲット確定”の連絡が日本に入ってきたのは、駆け込み事件が起こる2日前の2002年5月6日の晩のことだった。

樵悴し、枯れた声で暗号めいた電話をかけてきたのは、韓国にある北朝鮮難民支援NGO「キルス家族救命運動本部」事務局長の文国韓(ムン・クッカン)氏。2001年6月に北朝鮮難民7人が北京の国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に駆け込んだ「チャン・キルス君事件」で、主導的役割を果たした人物である。

UNHCRR駆け込み事件の際には、私は文氏の要請で現地に同行取材していた。私が長年北朝鮮問題を取材してきたことから信頼関係が生まれ、計画段階からUNHCR事務所駆け込みから籠城に至るまでの、すべての過程を密着取材する機会に恵まれたのである。

このような経緯があって、瀋陽での行動前に、文氏は私に再び同行取材を要請してきたのだった。“洋食屋”が米国総領事館を、“日本食堂”が日本総領事館を指すのはすぐにわかった。“日本食堂”入りが決行されるなら、北朝鮮難民問題に日本が巻き込まれる初のケースとなる。それに、駆け込みを決意した北朝鮮難民一家は、この1年余り前に私が取材したことのある5人家族であった。文氏の電話を受け、私は一家の行動を最後まで見届けたいと強く思った。だが、文氏の要請はあまりに唐突だった。

「数日、決行を延期することはできませんか?どうしても動かせないスケジュールが入っているんです」

私の提案に対し、文氏は「それはできない。何とかして現地に来て記録してほしい」と繰り返し言うだけだった。

ぜひとも自分が現場に立ちたいと思った。だが、重要なのは駆け込み決行の現場が、間違いなく確実に記録されることだ。記者である私の都合で決死の亡命計画のスケジュールを動かすわけにはいかない。仕方なく私は日本残留を決め、信頼の置ける知人のジャーナリストA氏(共同通信記者)に、急遽代わりに現地行きをお願いすることにした。

世界に衝撃を与えた「瀋陽日本総領事館駆け込み事件」の決定的瞬間は、このA氏によってビデオ撮影され、共同通信を通じて世界に配信されたのである。

◆成功の鍵はメディアの力だった
文氏の当初の計画は、日本総領事館の隣にある米国総領事館への駆け込みだった。米国は人権問題で北朝鮮を批判し、強く注文をつけてきた。万一駆け込みが失敗しても、米国行きを目指したとなれば、米国政府は、身柄を北朝鮮に送らないよう中国政府に強硬に圧力をかけるだろう、というのが文氏の目論見だった。

だが、瀋陽現地の下見をした文氏は、計画の変更を余儀なくされる。2001年の9.11テロ事件の影響で、米国総領事館の警備が想像以上に厳しくなっていたのだ。扉はずっと閉ざされたままで、駆け込む隙間すら見つけることはできなかったという。米国総領事館に入ろうとするなら壁を乗り越えるしかないが、年寄りと女性、赤ん坊がいては到底できそうもない。
隣の日本総領事館はというと、いつ前を通っても、人が通れるだけの隙間が日中は常時開いている状態であった。

「おお、日本が手を広げて我々を招いている、これも神の思し召しに違いない、そう思ったわけよ」本文:8,652文字
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